自分自身を生きる考え方

他人の役立ちたいという人へ

他人の役立ちたいという人はけっこういらっしゃいますが、2つのタイプがあるように思います。

一つは、他人のためにやることに無意識に自分を傾けすぎて、相手が自分のもとからいなくなると自分自身を見失う人。

私の周りの例では、身内の介護をとても熱心にしている方で、本人もやりがいになっていて幸せだと言っていました。ところが、その身内が亡くなったらどうしようと考えて不安になり、自分が病気になってしまいました。
別の例では、多くの人を相手にする仕事をしている方で、大変なこともあるけれど人の力になれることが楽しいと、激務も前向きにこなしていました。
その後、会社の提供サービスの変更によってお客や取引先から文句のほうが増え、「今まで自分がしたことは何だったのか」と落ち込みモードに。

 

もう一つのタイプは、自分がやることが結果的に他人のためになって役に立つことは喜びだけれど、他人がどう変わろうと、どう在ろうと自由だと思っている人。

こちらの例としては、仕事ではないけれど、よくまわりから相談される方がいて、老若男女から話を聞いていました。
「おかげで元気になったとか問題が解決したという話を聞くとうれしいし、よかったと思う。一方で文句を言ったりキレる人もいるし、同じ内容で何度も話に来る人もいるよ。そういうことはぜんぜん気にならない。話をした後、どうなろうと相手の自由だから」

この話を聞いて、「だよね!」とこぶしを固くしたのは私です。
なぜかというと、もっと昔の私は他人に力を注ぎすぎて自分を見失っていたから。
「変わっても変わらなくても相手の選択」が身にしみてわかるのです。体験最強。

 

今はとっても自然で楽~。
ところが、その行為は冷たいという人もいます。

「相手の相談が終わった後もずっと気にしつづけて、大丈夫?心配してるのよと連絡するものよ」だそうです。
さらに反対の立場の時も同じようにするものなのだと(強要か)。
これは病みます。実際ご本人は精神的に不安定です。役に立ちたいという名の依存です。

さきほどの、お客や取引先から文句が増えたという話も、サービスの変更でどんな態度に変わろうが相手の自由なのです。

 

役に立つことをしたいと思うのは悪いことではありません。それが自然な人もいます。
そういう人は自分のしたいことをやるときに、同時に他人の役に立つことが自然にセットになっているため、どうすればいいのかという発想すらありません。

大事なのは、役に立つことで相手がどう変わろうと、どう在ろうと自由だということが、当たり前になっていることだと思います。こういうのも水瓶座っぽいですね~。個人の尊厳を大事にする。

役に立ちたい人は、総じて情が深くて献身的です。依存や自己犠牲になるラインがつかみにくいんですよね。
自分が自然にやれることをお勧めします。
それをやって結果的に相手の役に立ったというほうが、どこにも無理がないのでエネルギー的にも美しく流れます。となると、自分の好きなことになりやすい。
自分の好きなことをやりましょうというのはそういうことです。

 

もう一つ。
人の役にたつことは社会的に認められること、よいことだからという考えを無意識に持っている場合もあります。身近な誰かに認められたいのかもしれません。

もしくは「自分が何をしたいか」を見ることから目をそらすためにそう思っているのか。願いを見ないうちは、実現にエネルギーを注がなくていいですから。そういう生き方もありですが、いつかは自分で立って歩かねばならない時が来ます。

ここに書いた2タイプは私的見解です。こういうのもあるのでは~と思ったら、それを大事にしてください。

 

で。自分のやりたいことをしましょうというお話になると、「それでお金は稼げますか?」とセッションで聞かれることも多いです。
これはまた別の話なので分けます。つづきは次回に。